日本の相場師

 

本間宗久(ほんまそうきゅう) 江戸時代

 江戸時代の米相場で財をなした人。「本間様には及びもないが、せめてなりたや大名に」とうたわれたほどの大金持ちであった。

 

是川銀蔵(これかわぎんぞう) 昭和期 戦前〜戦後

 最後の相場師と言われた人。住友金属鉱山株で200億円儲けた。同社が鹿児島県で高品位の金を産出する菱刈鉱山を発見し発表するまでに、大量の株を集めており、財をなした。昭和57年には長者番付1位となる。それまでにも、日本セメント株で20億円ほど儲けたと言われる。当初の資金は数億円だったらしい。

 この人の人生は数奇である。戦前の中国は青島で日本軍相手に商売して儲けたものの、資金を中国の革命用に貸し、それが貸し倒れて無一文で帰国。その後、土地成金となり、儲けた金で株をやった。

 こんなに儲けたものの、その金で贅沢や浪費をしたという話は全く聞かない。住友金属鉱山の相場の後は、是川福祉基金をつくって恵まれない子どもに奨学金を提供した。

 

山崎種ニ(やまざきたねじ) 昭和期 戦前〜戦後

 旧山種証券(現在のさくらフレンド証券)をつくった人。通称「やまたね」は「相場の神様」とまで言われた。

 もともとは、戦前の米問屋出身である。産地で米を買い付け、それを米の先物相場で売っておくのが基本だった。その後、株式相場でも活躍し、戦前から戦後にかけて「売りの山種」として、下げ相場で空売りをしかけ、多大の利益を手にした。昭和11年におこった2.26事件による株式相場大暴落では、1人勝ちし営業停止処分をくらった。

 

大井 治(おおいおさむ) 昭和期 戦前〜戦後

 旧大井証券(その後、和光証券を経て現在、新光証券)をつくった人

 福井県出身。高等小学校を卒業後、大阪へきて大井株式店を開業。昭和6年、24歳のとき、相場暴騰で当て、その後の株式ブームにも乗る。しかし、昭和9年から10年にかけての大暴落で清算取引(先物取引)で「買い」で相場にのぞみ、大失敗。スッテンテンになる。一時は、自殺も決意したらしい。

 そこを思いとどまり、東京へ夜逃げする。翌年再び大阪北浜に帰り、営業を開始するが、やがて敗戦をむかえ、戦争株などをてがけていた同氏は行方をくらます。

 昭和21年春、北浜へ三たび戻る。終戦直後の新興のヤミ成金相手に株を売り、ボロ儲けをし、翌年、大井証券を設立する。同社は、小型株の価格をつりあげるなどして、ファンを獲得し、業績を順調の伸ばしていき、昭和38年までに証券大手4社に準じる総合証券の体制を整えた。

 しかし、二流、三流の株を大量に抱えていた同社は、昭和38、39年の株価下落局面で巨額の損失を出し、これを埋め合わせるため買い出動した観光株、電気株の仕手戦で完敗。あがきぬいて昭和39年9月、同社は行き詰まった。大井は社長の座から放り出されたが、大井証券の倒産は、あまりにも社会的影響が大きいため、日銀特融が発動され、同社は和光証券としてよみがえった。

 大井自身は、会社再建時に資財を提供したが、その時、秘匿した美術品をもとに画商として成功している。今でも、北浜かいわいに画廊が多いのはそのためである。

 

近藤信男(こんどうのぶお) 昭和期 戦前〜戦後

 「怪物相場師」と呼ばれた。名古屋出身で慶応大学へ入るが、遊んでばかり。株も学生時代からやった。昭和4年父が倒れたため、借金だらけの会社、近藤紡を継ぐ。棉花相場で大量の買いをだしたところ、アメリカの綿花地帯でミシシッピー川が氾濫。相場急騰により大儲け。28歳にして今日の何十億という会社の借金を一挙に返済した。

 昭和38年7月のケネディショックを契機とする恐慌相場では、売りに回り大儲けをする。その後、ソニーで90億円の損、中山製鋼で30億円の損を出し、69歳でこの世を去る。

 

石井 久(いしいひさし) 昭和期 戦後

 昭和24年、26歳で証券会社の歩合外務員となったが、同時に株式新聞に寄稿する。ペンネームは「独眼竜」。その後、株式新聞社に転職。昭和28年、新聞のトップに「桐一葉、落ちて天下の秋を知る!」の見出しを載せ、その後のスターリン暴落を当てる。

 その暴落の原因者とされたせいか、新聞社を退職し、石井株式研究所を設立する。

半年で研究所をやめ、証券会社を設立。昭和30〜32年の神武相場で大当たり。その後の不況期に立花証券を買収。その後33〜36年の岩戸相場でキャノンの上昇下落を予想して的中させる。昭和48年、50歳になり、会長を退く。

 

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